先輩オベリンナー訪問
学長だって人間だ。桜美林大学学長 畑山 浩昭
UPDATE 2023.2.28
先輩オベリンナー訪問
ビジネス、芸能、学問など、各界で活躍する先輩オベリンナー(桜美林の在学生や卒業生の総称)たち。彼ら・彼女らはどんな学生生活を送っていたのか、現役オベリンナーが聞きました。今回は、桜美林大学の畑山 浩昭学長。学長の知られざる大学生時代と、その素顔とは?
ビジネス、芸能、学問など、各界で活躍する先輩オベリンナー(桜美林の在学生や卒業生の総称)たち。彼ら・彼女らはどんな学生生活を送っていたのか、現役オベリンナーが聞きました。今回は、桜美林大学の畑山 浩昭学長。学長の知られざる大学生時代と、その素顔とは?
1962年鹿児島生まれ、桜美林大学文学部卒業。高校教師として働いたのち、米国ノースカロライナ大学シャーロット校大学院修士課程修了(M.A.)、ノースカロライナ大学グリーンズボロ校大学院博士課程修了(Ph.D.)。マサチューセッツ工科大学大学院修士課程修了(M.B.A.)専門は文学・レトリック学。2006年に桜美林大学教授となり、その後、学長補佐、基盤教育院長、国際センター長、副学長の役職を歴任。2018年に第5代学長に就任。ロック&ブルースと元保護ネコ「Q」をこよなく愛する様子を、自らのTwitterで発信している。ニックネームは「ヘンリー」。
聞き手:
結城さん(芸術文化学群 音楽専修 2年)
小坂さん(リベラルアーツ学群 2年)
※本記事は2022年6月発行「ビビビッ!」に掲載されたものです。記載内容は2022年6月当時の情報です。
畑山学長はすごく学生と距離が近い気がします。学長が学生とTwitterで絡んでくれる大学、あんまりなさそうですよね。
小坂君とも時々絡んでるよね(笑)。学長がTwitterをやるのって、リスクもあるんですよ。たとえば大学に対してネガティブな意見がDMできたりもするしね。
じゃあ、どうしてTwitterを始めようと?
始めたのは学長になって2年目のときだったかな。僕の活動を投稿するというよりは、サークルとか部活とか、桜美林の学生がやってる活動をいろんな人に知って欲しくてね。僕のアカウントで紹介しようと思ったんです。
確かにTwitterだと、学長のお仕事の様子はみえてこないかもしれないですね。普段、どんな仕事をしてるんですか?
お店の店長さんと似てるかもしれないです。つまり、全体の責任者。大学を運営するためには、いろんなことを決めなきゃいけない。教育の方針も、土地と建物の管理のことも、人事やお金まわりのことも。とにかく、大学が大学としてきちんと運営されていくように、すべてのことを決めて、責任をとるのが学長です。
きっと忙しいですよね?
毎日忙しいねぇ。Twitterだと遊んでるように見えるかもしれないけど(笑)。突然起こる問題も処理しなきゃいけないし、大学の将来のことも考えないといけないですからね。
Twitterでたまに、趣味の音楽についても投稿しているのも見かけます。
ああ、あれはリフレッシュですね。学長の仕事も大変だからね。
音楽はいつから?
中学くらいからです。中学の時はフォークギターだったけど、高校でエレキギターに替えて、バンドをはじめたんです。最近はあんまりバンドはできてないけど、曲をつくったりしてますよ。
ええー、作曲を?!
ほら、こういう曲とか。(スマホで曲を流す)
…めちゃくちゃかっこいい! これ、誰が歌ってるんですか?
僕が歌ってます。
すごい! 作詞作曲から歌まで、ぜんぶお一人で。
年を取ってくると、若い頃聴いてた曲も今の自分の気持ちと合わなくなるんですよ。だから自分で曲作って、自分の歌詞で歌わないと、満足できなくなってくるんだよね。
すごいなあ。あれ、今日ミュージシャンのインタビューでしたっけ(笑)?
学長も桜美林大学の卒業生ですが、どうして桜美林大学を受験しようと?
大学生になったら東京に出て、バンドやりたいなと思ってたんです。あと、父親が中学の教師だったんですね。それで、教師が英語の発音を勉強するために使うカセットテープが家にあって、僕はそれを聴いて勉強してたんですよ。だから英語と、あと現代文だけは成績がよかった。で、桜美林大学のその時の入試が、英語と現代文の比重が高かったの。「僕のための入試か!」と思って(笑)。それで無事、合格して上京しました。
大学生活はどんなふうに過ごしていましたか?
音楽漬けでしたね。上京してすぐバンド活動をはじめました。
じゃあ、サークルでバンド活動を?
サークルは入ってないんだよね。生意気なこと言うようだけど、学内で収まりたくないと思ってたから(笑)
僕が大学にいた80年代後半は、小田急線と京王線とJR中央線の文化がぜんぜん違ってて、僕はJR中央線が一番好きだった。泥臭くてね。だから高円寺とか荻窪に住みたいんだけど、苦学生だったから、家賃が高くて住めない。だから日野駅に住んでたんです。よく多摩川の河辺で座ってましたよ。夕日を眺めながら。
アルバイトはなにかやっていましたか?
色々やりましたよ。中華料理屋の皿洗いとか、家庭教師とか、測量とか。 一番長かったのはガソリンスタンドだね。夏休みに一生懸命お金を貯めて、ギター買いに行ったんです。
ギターを買うためにアルバイトを?
そうそう。欲しかったギターが23万円もしたんですよ。 当時のアルバイトの時給が500円くらいだったから、夏休み中フルで働いて、やっとの思いで貯めたお金を握りしめて、 新宿の楽器屋に行ったんです。ショーケースに飾ってある欲しかったギターをやっと手に入れて。すごく嬉しかった。ハードケースを抱えて帰りましたよ。
バンド活動とサークルをそんなにやっていたら、学業の方はどうだったんですか?
文学部の英米文学科にいたんだけど、音楽活動に夢中だったから、そんなに勉強してたわけじゃなかった。あ、これは真似しないでくださいね(笑)僕もそのあと大学院でかなり勉強したし、ちゃんとやったほうがいいですよ、学業は。
将来は音楽で食べていこうと考えてたんですか?
おぼろげながら、そう考えてましたね。でも、4年生の頃には「さすがに無理かも」って。それで教員採用試験を受けたんだけど、もちろん落ちますよね、勉強してないから。
で、就職活動をしたら、今でいうIT系の会社の内定が出たからその会社で働こうと思ってたんだけど、卒業目前の3月に突然、「1年間の期限付きで教員の枠があるからやらないか」って、鹿児島の教育委員会から電話があって。親もそうした方がいいっていうし、鹿児島帰って教師やるかと。それで、鹿児島に帰ることにしました。
これまでずっと桜美林大学で働いていたわけじゃないんですね。
いろんな経験をしてきましたよ。29歳くらいまで高校の教員をやって、34歳までアメリカの大学院に留学して。帰国して桜美林大学で働きはじめたのが、35歳になる年だったかな。
知らなかったです。社会人デビューは、学校の先生だったんですね。
はい。しかも屋久島でね。
えー、屋久島って、あの世界遺産の!?
そうそう。鹿児島に帰って面談をしたら、「あなたの赴任地は 屋久島高校です」って言われてね。屋久島には結局1年だけしかいなかったんだけど、すごく楽しくて 。屋久猿っていう猿がたくさんいて、夜になると山から降りてくるんだよね。海中温泉があって、友達と夜に行くと、お猿さんが先に入ってるの。だから、「ちょっとごめんなさいね〜」ってお猿さんに声かけながら、一緒に入ったりしてました。
でも、勉強しないと1年で仕事がなくなっちゃうんで、すごく勉強をして、2年目に教員採用試験に受かったんです。それから別の学校で働き始めて、トータル6・7年、高校の教員をやってましたね。
それから大学院に留学したのはどうしてだったんですか?
高校では英語の教員として英語圏の文化を教えてたんだけど、 自分が経験してないから嘘っぽいんですよ。だから実際に英語圏の文化を体験してみるかということで、アメリカの大学院への留学することにしたんです。
大学院では、英語学や言語学、英文学を研究しましたね。結局博士課程まで出て。アメリカの生活が性に合ってたから、ずっとアメリカにいようかと思ってたんです。でも、アトランタ五輪のとき、当時の桜美林大学の学長がアメリカに来てたから「会わないか」って誘われて、近かったから会ったんですよね。そしたら、10分後には日本に帰ることが決まっちゃった。
ええ!?展開が早い(笑)
当時、桜美林大学でELP(English Language Program)っていう英語プログラムがあって、ネイティブの講師たちと大学側との仲介役がいないから、その役割を担ってほしいって言われたんだよね。
あんまり躊躇はしなかったんですか?
正直、あまり何も考えてなかった。 なんとなく直感で、「面白そう」って思ったんだよね。
そこから、専任講師として4・5年働いて、助教授になって、45歳のときに教授になって。だんだん、学部の教務委員長とか学長補佐みたいな管理部門のことも任されていたんです。
そのあと、マサチューセッツ工科大学経営大学院でMBAを取得していますよね。なぜまた留学をしようと?
大学運営って、遊びじゃできないですからね 。 失敗したら、学生や教員を路頭に迷わせちゃいますから。かじったくらいの知識で、経営はできないわけですよ。
ちょうど大学側からも「経営を学んできたらどうか」と勧められたので、留学することにしました。あっちでのプログラムはものすごいハードだったけど、なんとかMBAを取って帰国して。それから副学長を経て、学長になった、というのがこれまでの歩みですね。
最後に、学長として桜美林大学をこんな大学にしていきたい、という思いはありますか?
学生たちが大学を出たあと、自分たちの足で歩んでいけるようになるためにはどうしたらいいのか、常に考えています。
良くないなと思うのは、大学が学生を「お客さま」みたいに扱うこと。一見ウケが良さそうな授業をつくって、学生を集めるような方法もあると思います。それだと、学生は楽かもしれないけど、卒業後に自分の足で歩んでいく力が身に付かない。大学にとっての学生は、「お客さま」じゃなくて「クライアント」だと思ってるんですよ。
「お客さま」と「クライアント」…どう違うんでしょう?
「クライアント」って、「お客さま」よりもその人に寄り添う意味合いがある。たとえば、医者や弁護士はお客さんのことを「クライアント」というけれど、どちらもお客さんの課題に寄り添って解決する。学生は一人ひとりがなにか目標や興味関心を持ってるでしょう。パイロットになりたいとか、観光を学びたいとか。そんな思いを受け止めて、自分たちの足で歩んでいけるようにあと押しする大学でありたいと思っています。
そうか、桜美林大学の学生って、自分で考え、学んでいる人が多いなぁと思っていましたけど、大学側もそれに伴走するスタンスがあるんですね。
そうですね。自分で考え、学ぶことは、その後の人生を自分たちの足で歩んでいける力だと思うので。大学はそういう力をつけてあげたいなと思いますね。